概要

六曜(ろくよう)は、先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口という6つの曜で日を吉凶をあらわす暦注である。

現代の日本においては、大安の日は結婚式や結納を、友引はお葬式はを避けるなど、主に冠婚葬祭で使われる最も有名な暦注の一つ。いわゆる「お日柄」はこの六曜のこと。

六曜一覧

六曜の各項目の詳しい説明は以下の通りです。

六曜 説明
先勝 午前は吉、午後は凶
「先んずれば即ち勝つ」の意味で、物事を急ぐことが良いとされる日。
友引 午の刻(午前11時〜午後1時)は凶、それ以外は吉
「友人を引き込む」とされる日。そのため、結婚式を行うには縁起が良く葬式は悪いとされる。
先負 午前は凶、午後は吉
「先んずれば即ち負ける」の意味で、急用は避けるべきとされる日。
仏滅 一日を通して凶
「仏も滅びる最悪の日」の意味で、何事にも手を出さないのを良しとする大凶日とされる。
大安 一日を通して吉
「泰安」が元になっており、婚礼などの日取りは大安の日に行われることが多い。
赤口 午の刻(午前11時〜午後1時)は吉、それ以外は凶
陰陽道を由来とし、「赤」が火や血を連想させるため「死」の意味合いを持つ。火の元、刃物には特に気をつけるべきとされている。

起源

六曜の起源は中国とされていますが、いつの時代に発祥したものかは諸説あり、はっきりとは分かっていません。

古いものでは、中国の宋の時代(960年-1279年)の末期に『事林広記(じりんこうき)』という日用の百科事典に『六壬時課(りくじんじか)』という時刻占いが掲載されており、これが六曜のルーツと考えられています。

明の時代(1368年-1644年)の日用書『万宝全書』では『六壬掌訣(りくじんしょうけつ)』として同様のものが掲載されています。ただし、この書では、宋より前の唐の時代(618年〜907年)の数学者・天文学者である李淳風(り・じゅんぷう 602‐670)が考案したものと記されていますが、権威付けのために彼に名を借りたもの、という見方もあります。

清の時代(1644年-1912年)になると、『通徳類情』に、それまでの時刻占いとしての「六壬」とは別物の日を占うものが掲載されており、中国でも日の吉凶を占うために用いられた時期がありましたが、あまり流行せずに消滅してしまったようです。

現代でも「六壬」は、香港や台湾など旧中国の習慣を継承している地域で発行されている民間の暦には、時刻を占うものとして掲載されています。

日本においての六曜

中国のこれらの書物は、鎌倉時代(1185–1333年)末期から江戸時代(1603–1868年)初期にかけて日本にも輸入されましたが、庶民の間で流行したのは江戸時代になってからです。

天保(1831-1845年)の頃の書物に六壬が紹介されていますが、時刻占いとしての六壬はこの頃で終わっていると考えられています。

一方、 日を占ものとしての六壬は、古くは貞享5年(1688年)刊行の『頭書長暦(とうしょちょうれき)』に掲載されており、解釈も独自のものが使用されています。

現代のものと一致するのは、享和(1801-1804年)や文化(1804-1818年)の頃と思われますが、嘉永(1848-1855年)の頃までの雑書には大安を「泰安」、仏滅を「物滅」のように名称が異なるものがあります。また、この頃の書物の多くは、時刻占いの「六壬」と区別するため「六曜」という名称で日の占いであることを示しています。

六曜は幕末の頃には民間にも普及した暦注だったと思われますが、官暦(暦の作成や配布は古代より朝廷や幕府によって取締られてきました)には記されることなく明治時代の太陽暦への改暦を迎えます。このとき政府は吉凶に関する迷信的な暦注の使用を禁止しました。

ところが、明治15年(1882年)頃から「おばけ暦」と呼ばれる官の許可を得ないで発行された暦が出現し始め、これに六曜、三隣亡、九星など迷信的な暦注が記載されることとなります。日中戦争の開始とともに出版統制が厳しくなり「おばけ暦」も姿を決していきますが、第二次世界大戦の終了とともに政府による統制も廃止され暦の出版が自由になり、六曜などの暦注が一般に使用されるようになりました。